昭和歌謡 川の流れのように

沖縄読谷村の「ちびちりがま」事件(2017年9月)から~。

私は沖縄県民ではありません。
多くの沖縄県民にとって身に突き刺さる事件だと想像します。
「ちびちりがま」は30年前にも、金城実さんの作品が壊された処という記憶をしています。

この事件の「今、分かっている範囲」で捉えれば、貧困というキーワードが浮かび上がってきます。

「肝試し」という彼ら(少年)は、
日々の3食からも遠かったのだろうか?
と同時に、大人とのフツウの接触も少なかったのだろうか?
<<上記はすべて推測です>>

話を切り替えます。
貧困子どもと多くの時間を接している現場で、少なくない沖縄の大人たちがキミ・あなたに関心があるよ!という意志を伝えることに日々努力をされていることを、私は知っている。
上から目線で道徳を説くのではなく、
子どもの隣で一緒になって遊び考え悩んで、
共に現実社会を学んでいく姿勢が肝要だと、
日々現場で子どもに接している沖縄の大人たちから、私は教えられている。
学ぶ前、遊ぶ前に、お腹を膨らませること!
私はこのことだけを考えてきた(お口いっぱい食堂)。がしかし沖縄の大人たちから、子どもが自分に関心を持っている大人(わたし)が居るということを体感させることが第一義だと教えられた。

人生を川に例える人は多い。
昭和の歌姫の「川の流れのように」という名曲もある。
貧困子どもの支援について、賢人たちと話をする機会が多い。賢人たちは私の活動を褒める。そして声援を送ってくれる。
そのような時も、「育児は親の責任だ」と根底で思っている匂いを感じる。私も60%そう思う。

私はそう思いながらも、ひとつ話を加える。

川で溺れかかっている子どもがいる。
キミ(賢人)は溺れている子どもを助けるのは「親」だと考えるだろうか?溺れそうな子を見て通り過ぎることが出来るだろうか?
川で溺れかかっている子どもを、キミ(賢人)は見たことがないのだろう。でも、キミや私の近くに溺れている子どもは確実に居る。

貧困子どもの対応は他の社会問題と同じく難しい。
問題は炙り出し周知のことにすれば、もうその時点で90%解決したも同然という成功体験が私にはある。
しかし、貧困問題では子どもの人権(プライバシー・プライド)を丁寧に扱うべし(周知化不可)という制約がついてまわる。(子どもは)溺れているのに溺れていないように見せなければならない。

私は希望が見える。
問題認識は出来ているのだから、必ず、解けると希望を持っている。

「ちびちりがま事件」。
子どもと共に育つ大人や社会のあり方を再考させられる事件ですね。

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